魔界少女キャシーと殺人人形

Do you know "Creepy Doll Movies"?

~優しい狂気の人形怪談~『生き人形マリア』

この映画が日本の劇場で、スクリーンに映し出され、良い音響で観られる環境にあったということが最高の恐怖であり、何よりの奇跡なのではないだろうか。2014年にフィリピンで生まれたこの狂気の人形ホラー映画は、約5年という時を経て日本に上陸してしまったのだ…。

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ストーリー

同じ学校に通う娘を持つフェイス、フリオ、ステラの3人は、ある日突然、娘を失う。バスの事故だった。あまりにも突然な娘の死から立ち直れるはずもない3人の前に、精神科医を名乗るマノロという男が現れる。

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彼は人形を持っていた。それも、3人が失った愛娘と瓜二つの「生き人形」だ。彼はこの人形で悲しみを癒せるという。だが、フェイスとステラはそんな節操のないマノロの提案を受け入れるはずもなく、怒りを露わにし、人形を突き返す。

一方、娘こそが唯一の家族であったフリオだけはマノロの提案を受け入れた。マノロの言うとおり、人形との生活を始めたフリオは徐々に悲しみを癒していく。その姿を見たフェイスとステラも、徐々にマノロの人形を受け入れていくことになる。

こうして3体の少女人形はそれぞれの家に置かれることになった。最初こそマノロの提案を拒否していたフェイスとステラも、フリオと同じように人形との生活のなかで徐々に悲しみを癒していった。

だが、3人の悲しみが癒えていくと同時に、周囲からは人形に対する信じがたい恐怖の声が上がるようになる。そして、3人が人形の恐ろしい裏の顔に気づきはじめたとき、動くはずのない人形が独り歩きをはじめる。

 

現代に甦る「着ぐるみ方式」の殺人人形を見よ!

『生き人形マリア』は紛うことなき「殺人人形ホラー映画」だ。ひとりでに動くはずのない3体の少女人形が、呪いでも何でもなく、得体の知れない未知のパワーによって動けるようになるという、いわゆる『チャイルド・プレイ』のチャッキーと同じカテゴリに分類される。

ただ、技術的な話をすると、人形が人を襲う場面においてはチャッキーのようにアニマトロニクスを使った特撮というのはほとんど用いられていない。いわゆる着ぐるみ方式というか、子役に人形のメイクを施し、演じさせているのだ。

殺人人形ホラー(『チャイルド・プレイ』以外では「パペット・マスター」シリーズや『ドールハウス』等)といえばチャッキーのようなアニマトロニクスによる特撮が一般的なように思えるが、実は『生き人形マリア』のような「着ぐるみ方式」(本稿ではこの表現で統一する)の方が歴史は古い。

例えば1964年に製作された“DEVIL DOLL”(日本未公開)という映画なんかは着ぐるみ方式を使って殺人人形を再現した世界で初めての映画ではないだろうか。

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また、1968年製作“Curse of the Doll people”(日本未公開)や、日本でもブルーレイソフト化までされている1987年製作『クリープショー2 怨霊』の木彫りインディアン人形なんかもそうだと言える。

そして『生き人形マリア』は、実は“DEVIL DOLL”とまったく同じ手法で殺人人形を表現している。役者の顔には人形を模したフルフェイスのマスクを被せ、人形と同じ衣装を着ることで表現するというものだ。

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この映画の製作陣がわざわざそういった部分でのクラシックさを狙ってやったとは思えないが、現代の人形ホラー映画においては見ることのない手法なので、それだけでも観る価値は充分にあるだろう。

もちろん、そういったクラシカル的なアピールポイントだけではない。単純に少女人形を模したフルフェイスというのが不気味で恐ろしいということもある。正直に言って、決して出来の良いマスクというわけではない。

だが、その不出来さが「歪むはずのない人形の表情が歪んだ瞬間」みたいなものを見事に表現しているようで恐ろしいのだ。この顔をした人形に追いかけられたら、一生のトラウマものだろう…。

 

恐怖に立ち向かい、悲しみを乗り越える物語

『生き人形マリア』という映画は、底知れぬ人形の恐怖演出や終盤の悪魔的なストーリー展開など、全体的にハイテンションで狂った映画であることには間違いない。だが、実はストーリーに込められたテーマそのものは至極真っ当で、涙なしには語れないものであるということはしっかりと話しておきたい。

そこにはこの映画に登場する3体の人形が、それぞれ3人の愛娘と瓜二つの容姿をしているというところにも大きく関係してくる。

この映画の主人公である3人の母親は愛娘を失った悲しみから立ち直れずにいるが、いつまでもそうではいられまいと、どこからともなく現れた精神科医の勧めで、いわゆるドールセラピーを選択する。

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だが、そこで用いられる人形は死んだ娘と瓜二つの容姿をした人形だ。たしかに死んだ娘の代用として瞬間の悲しみは癒えるのかもしれないが…では、もしもその人形が壊れたり、無くなってしまったらどうなる?結局また娘を亡くした悲しみに逆戻りだ。

ストーリーの展開からみても、3人の母親が人形を受け入れたことで彼女らの悲しみは癒えていく反面、周囲では暗黒が蔓延しはじめるということが、人形は根本的な悲しみの解決には至ってないことを表しているようにも思える。

愛娘と瓜二つの容姿をした人形で代用したところで、本当の娘が亡くなった事実は変わらない。本当の意味で悲しみから立ち直るには、心に空いた穴を人形で埋めるのではなく、「娘はもういない」という事実・現実を受け入れることだ。

そう考えたときに、この映画の主人公である3人の母親が、亡くした娘と同じ姿をした人形を自らの力で打ち負かすというラストは大きな意味を持ってくる。

フェイス、フリオ、ステラが愛した娘達…マリア、レオノラ、テレサの姿をした殺人人形は、彼らが乗り越えるべき「悲しい現実」の象徴だったのだ。

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最後に

あくまで本稿の執筆中及び記事を公開する時はまだ劇場公開中のはずなので、敢えて記事の中で触れてはいない要素が多々あります。ただ、私がこの人形ホラー映画を観て魅力に感じ伝えたかったことは書かせていただいたので、これを読んで劇場に足を運んでくださる方が増えるといいなぁとは思っています。

この映画は間違いなく人形ホラー映画だし、傑作です。ストーリーにおいて人形が必要不可欠なだけではなく、作品に込められたテーマとして人形が重要な役割を担っています。

それでいて怖いです。すごく怖いです。

すごく怖いんです。

 

2019年版『チャイルド・プレイ』評

まず最初にハッキリと言っておく。

これは人形ホラー映画でもないし、その金字塔である『チャイルド・プレイ』の名を語るべきではない。

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この映画にかぎらず、どんなリブート作品でもオリジナルをなぞれとは言わない。リブートするだけの挑戦はしてほしいし、どうせなら新しいものを見せてくれとも思う。だが、それはあくまでオリジナル版の良さを損なわない、敬意を払ったうえでの話だ。

このリブート版『チャイルド・プレイ』にはオリジナルに対するリスペクトも感じられなければ、それどころかジャンルまでをも別のものに変えてしまっていると私は感じた。

 オリジナル版との相違点①~これは人形なのか?問題~

88年製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』の殺人人形チャッキーはブードゥーの魔術によって殺人鬼チャールズ・リー・レイの魂が人形に宿ることで誕生する。

チャールズの魂が宿ったグッドガイ人形チャッキーは、アンディ・バークレイという一人の少年のもとへ、誕生日プレゼントとして贈られる。

通常のグッドガイ人形にはトーキング機能に加え、首を動かし瞬きをするという機能が備わってはいるが、それ以外の動作は行えないのが特徴だ。

しかし、アンディのもとへやってきたチャッキーはそうではなかった。見た目こそ愛嬌のある可愛らしい少年の風貌をした人形だが、中身は殺人鬼なのだ。

オリジナル版の怖さはそこにある。ひとりでに動くはずのない人形が動き出し、知らぬうちに人を殺しているということが恐ろしかった。

一見すれば「人形に人殺しをさせてみよう」という、ある意味でサメやワニ、エイリアンといったモンスターホラーと似たアイデアのもとにあるようにも思えるが、この映画が他と違ったのは、なによりも身近な存在による恐怖というところだ。

オリジナル版の公開当時には「『チャイルド・プレイ』を観てしまった子供たちがついさっきまで遊んでいた人形を捨てはじめた。」なんて逸話が残るほどに、この映画は人形の恐怖というものを観る者に植え付けた。それが結果として「人形ホラー映画」というジャンルの認知・確立に繋がった。

だが今回のリブート版はどうだ。グッドガイ人形ならぬバディ人形には最新鋭のAIが搭載され、初期のスペックからすでに自立して動くことができ、話すこともできる。なんなら家電まで操作するし、持ち主との対話を経て成長までするという仕様だ。

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完全に機械とコンピュータの成せる業として誕生したバディ人形は、もはや「人形」とは呼べず、完全なロボットになってしまっている。

バディ人形ならぬバディ・ロボはiphoneに接続することで初期設定を行い、眼を光らせ、起動する。もう、これは人形のホラー映画ではない…。

オリジナル版との相違点②~もう、何もかもが違う~

極めつけはこの映画の冒頭シーンだ。バディ・ロボの生産工場からはじまるオープニングにはそれなりにワクワクさせられた。だが、そのワクワクも一気に地獄へと突き落とされる。

ある一人の工場員が上司にクビを告げられる。その腹いせにと製作途中のある一体のバディ・ロボのプログラムを「暴力の制限無し」へと書き換えて作り上げてしまうのだ。これにより、殺人人ぎょ…殺人ロボ・チャッキーが誕生する。

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ちなみにこの殺人ロボが「チャッキー」と名乗る理由などは一切無い。オリジナル版よりも年齢を格上げされたアンディ少年に何と呼ばれたいかを尋ねられ、特に前触れもなく「チャッキーと呼んでほしい」と答える。

こんなのはオリジナルへの配慮もしくはリスペクトでもなんでもない。いっそのことなら名前を変えるべきだった。

話を元に戻すが、結局ワクワクから一気に地獄へと突き落とされた冒頭シーンの何がいけないのかというと、まだ物語も始まっていない段階からすでにバディ・ロボが暴走してしまうことへの明確な理由付け(=プログラムの不具合)がなされてしまっていることだ。

これがどういうことに繋がるのかというと、まず、88製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』が社会現象を巻き起こすほどに与えた恐怖とは「動くはずのない人形が〜」という部分にあると先述したが、リブート版ではデフォルトで動いて話せる仕様の人形ならぬロボットに改変されている…ということがある。

それに加えて、ブードゥーの魔術という何が解決策かも分からないところがまた観る者の恐怖心を煽っていたオリジナル版とは違い、最初から機械仕掛けのロボットであることが明確で、そのロボットが暴走してしまう原因が内蔵されたAIのプログラムにあると分かってしまっている以上、いくらでも解決策が見出せてしまうので、必然的に恐怖が半減してしまうのだ。

ちなみにその解決策というのは、チャッキーに内蔵されたAIを抜き取って破壊するか、チャッキーそのものを破壊すればいい!ということだ。案の定、物語の主人公達はそれと同じことをする。しかもそれで本当に解決させてしまうのだから、開いた口も塞がらない。

2019年に、オリジナルの殺人人形チャッキーを創造したドン・マンシーニの断りもなく製作されたリブート版『チャイルド・プレイ』は、その製作の姿勢からも伺えるように、オリジナル版への敬意を一切無視した作品になってしまったのだ。

リブート版『チャイルド・プレイ』の良さ

そんなものはありません。

キャラクターとしてのチャッキーに関する相違

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強いて言うならば、殺人ロボ・チャッキーによる残酷描写は思った以上に容赦がなくて素晴らしかったのではないかと思う。

オリジナル版チャッキーも、まさにタイトル(“Child's Play”)のごとく、まるで子供の遊びかのようなピタゴラ殺人術やその無邪気さで楽しませてくれた。リブート版チャッキーに関してもそれは同じで、無邪気で残酷な殺人術をこれでもかと披露してくれる。

ただ、どうしても許せない点がいくつかあった。それもまたオリジナル版との比較になってしまうのだが、そこは許してほしい。

その一つはオリジナル版チャッキーと違って、リブート版チャッキーの殺人の動機が不純であったことだ。

オリジナル版チャッキーは純粋に殺人を楽しんでいて、そこに大きな理由はなかった。だから観ていて清々しいものがあったし、和ましくもあった。

一方でリブート版チャッキーはアンディのことが大好きすぎて人を殺してしまうという、どこか殺人の動機に闇を感じられ、同情心をくすぐるようなものになっている。

この「チャッキーの殺人の動機のあるなし」はキャラクターとしてのチャッキーの魅力において重要なポイントだ。

オリジナル版チャッキーが今日まで多くのファンに愛されてきたのにはキャラクターとしての大きな魅力があったからに他ならない。それというのが、無邪気に人を殺すという「可愛らしさ」と、チャッキーに同情の余地が一切ないというところだ。

人間だったころのチャールズ・リー・レイが何をしても生き延びたいがために魂を人形に移したことで誕生したチャッキーは、新たな人間の肉体を求め、アンディ・バークレイという一人の少年を執拗に追い回す。その先々で自分の一番の道楽である人殺しをして楽しんでいる。

人間だったころは殺人鬼だったくせに、今度は人形に乗り移って一人の少年の人生を破滅に追い込もうとしている。ついでに人も殺す。

そんな奴に誰が同情するというのか。…と思う反面、人殺しをしているときの無邪気さと見た目の愛らしさから許せてしまう。それがオリジナル版チャッキーの持つ大きな魅力の一つではないだろうか。(※もちろん、それだけではない個人が感じるチャッキーの魅力はいっぱいあるはずです。)

また、同情の余地が一切ないからこそ、シリーズを重ねるたびにチャッキー自身が殺されても「まぁ、仕方ないよね…笑」としか思わなくてすみ、観ている側も後腐れがない。常に気持ちの良いままで映画の幕を降ろすことができるのは、オリジナル版チャッキーのキャラクター性にあるのではないだろうか。

だが、リブート版チャッキーのように歪んだ愛情のようなもので人を殺すなどというキャラクターにしてしまったものならば、本来主人公であるアンディが助かっても素直に喜べず、チャッキーに対してどこか同情してしまうという気持ち悪さだけが残ってしまうのだ。

このチャッキーのキャラクター性の改変に関しては、リブートするうえでやろうとしてることも分かるし、なんなら良い試みではないかと思っている。

ただ、私個人の意見としては、やはり許せない改変なのだ。リブートするにしたって、こんな闇の深いチャッキーを私は求めていないかった。

リブート版はジュブナイル映画として成功していたのか?

さて、このリブート版『チャイルド・プレイ』であるが、オリジナル版と比べたストーリー面での大きな改変として、ジュブナイル映画としての側面を大きく売りに出しているところがある。

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たしかにオリジナル版よりもアンディの年齢は上がり、自身の抱くコンプレックスや家族関係、友人関係で悩むアンディの姿が描かれる。

だが、はっきり言ってそのどれもがすべて中途半端であったことは否めない。特にアンディの友人関係のドラマに関してはクライマックスのカタルシスを生むために最も丁寧な描き方をしなければならないはずなのだが、そこが特にないがしろになっていた。

そもそも劇中でアンディが友人を作るために必要な場となりえる学校に通う描写は一切無く、明らかに物語を動かすための歯車然として突然現れた、同年代の二人組と理由もなく意気投合してしまう。

これがもう不自然極まりないのに、そこからおおよそ予想しうる展開としての「仲間割れ→再結成→みんなでチャッキーをやっつけるぞ!」という流れも非常にステレオタイプで薄っぺらい。

ホラー映画の宿命とも言えるが、そもそもの本編時間がそんなに長いものではないので、その中で描き切れなかった部分もあったのだろう。それが幸いしてか、映画自体のテンポは悪くなく、退屈するようなことがなかったのは唯一の救いだ。

こうしたドラマ部分の新しい試みは非常に賛同できるが、人形ホラー映画好きであり、ジュブナイル映画も大好きな身からすると、もう少し何とかならなかったものか…と肩を落とさずにはいられない。

リブート版『チャイルド・プレイ』で唯一期待していた要素だっただけに、非常に残念だ。

総評・まとめ

残念ながら、私の予想していた悪夢のリブート版『チャイルド・プレイがそこにはあった。コトの真意は定かじゃないが、そもそもこれまで「チャイルド・プレイ」シリーズを支えてきた、チャッキーの生みの親であるドン・マンシーニにリブートの話を通してない時点でオリジナルへの敬意は感じられない製作スタンスであったし、それがモノの見事に作品の出来に反映されていたのではないだろうか。

オリジナル版『チャイルド・プレイ』への愛は一切感じられない、文字通り「チャッキーの皮を被っただけのホラー映画」だった。

…とはいえ、ジャンルとして低迷しきっている人形ホラー映画という存在を改めて多くの人に知ってほしいという思いもあり、この映画がその懸け橋となってくれることに期待して「『チャイルド・プレイ』として観なければそれなりに面白いよ」と言いたくもなってしまったが、私がこの映画を人形ホラー映画として観れていない時点で多くに薦めたとしても、人形ホラー映画としての魅力は誰にも伝わらないであろう。

そしてやはり認めたくはないが、このリブート版が『チャイルド・プレイ』という名を掲げてしまっている以上、「チャイルド・プレイ」シリーズの一つとして評価しなければならない。

そうした時、私はこの映画を誰にも薦めてはならないと心に誓った。

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リブート版『チャイルド・プレイ』の公開を迎えて

本日はリブート版『チャイルド・プレイ』の公開日だ。正直に言って期待はしていない。

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再三言ってきたことだが、新チャッキーのスペックがAI搭載の高性能人形という時点でそれは「人形」ではない(つまり「人形ホラー映画」と呼んでいいものか?という問題)し、また「AIの暴走で人を襲う」なんて説明をされてしまったものならば…。

この大きな改変に関しては内心、すごく怒っている。

人形がひとりでに動いて殺人鬼と化す理由に科学的な根拠を付けるべきではないからだ。なぜならそれはサラ・コナーにショットガンをぶっ放させて、溶鉱炉に沈めればいいって話になってしまうから。

人形ホラーはそういうものじゃないし、もっと言えば88年製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』の持つ魅力、そして恐怖の根源に反しているからと言える。

映画に限らず、僕が「人形ホラー」というジャンルにおいて大切な要素だと思っていることは「人形=恐い」ではなく、その恐怖が人形でなくてはならない「理由」だ。

本来、人形は恐いものではない。特にフランス人形や市松人形なんかはそう思われがちだろう。気づけば「人形=恐い」という固定観念が世の中に広がっている。だが、思い出してほしい。人形は恐いものではない。人形は誰かを怖がらせるためのものではない。

たしかに人形の歴史の古くを辿れば呪術の道具や生贄の身代りというアンダーグラウンドな歴史を辿ってきた側面はあるが、時代は流れ、我々の遊び相手としての存在を確立し、今ではそれが一般的と言える。

そんな人の形を成した「人間の味方であり利用されるモノ」が人間に牙を剥くとはどういうことか?ひとりでに動くことのない人形が自我を持ち、我々を襲う恐怖とはどういったものか?それがまたなんで動くのか分からないから恐い。これこそが人形ホラージャンルの一番の魅力なのだ。

トム・ホランドが監督し、ドン・マンシーニが創造した88年のオリジナル版『チャイルド・プレイ』にはそれがあった。

アンディのお気に入りであり友達でもあったグッドガイ人形が、最初は表情も変えずに物騒な言葉をアンディに耳打ちし、それが次第にひとりでに駆け出すようになり、いつのまにかテレビの前でニュースを観ている。

それだけでも充分恐ろしかったのに、その人形がついに人間を殺しはじめる。なんで動いているのかも、人間を殺すのかもまったく分からない。スピーク機能はあっても、動く機能は持ち合わせていないただの人形がそういった行動を起こすから恐ろしかったのだ。

今日まで人形ホラー映画の金字塔と称され、本国での公開当時は映画を観た子供達が一斉に人形を捨てはじめた…なんて逸話が残るほどの影響を与えたオリジナル版が築き上げてきた人形ホラー映画の魅力というものがある。

リブート版チャッキーのスペックの改変に関してはもう手遅れだが、その他の、主人公アンディの年齢をオリジナル版よりも上にし、ジュヴナイル要素を加えたというストーリー面での改変は決して悪いものではないと思うだけに、リブート版『チャイルド・プレイ』にはそこを見失わない、汚さない映画であってほしいと切に願う。

〜実録人形ホラー映画の新鋭〜"MANDY: The Hounted Doll"

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 2018年にイギリスで製作された人形ホラー映画“MANDY: The Hounted Doll”(以後は“MANDY”と略す)は、実在する呪いの人形を題材として扱った映画だが、物語自体は『ザ・ボーイ 人形少年の館』と『ドント・ブリーズ』からアイデアを丸パクリして、どういうわけか人形目線の人形ホラー版『ホーム・アローンのようなものに仕上げてしまったというヘンテコな映画だ。

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 どのような物語の映画なのかといえば、三人のバカな盗人が、ターゲットにした老婆の邸宅に留守番として侵入したはいいものの、老婆から言い渡された「マンディの世話をしろ」というルールを無視して金品を盗もうとする。その結果、実はその正体が幽霊憑きの人形だったマンディによるこっぴどいお仕置きを受ける(殺される)…というものだ。

 

 では、この映画の何が人形目線の人形ホラー版『ホーム・アローン』たらしめているのか?…とはいえ、本来、この映画はそんなものにしようとなんて思ってはいなかったはずだ。

 

 先述してはいるが、この映画は実在する呪いの人形を題材にしている

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 それというのは「この世には実在する“いわくつき”の人形があって、その人形にはこれだけの恐ろしいバックボーンやエピソードがあるのだ」ということを観る者に伝えるための何かしらの実録性を持たせなければ意味のない題材である…ということだ。

 そう考えたとき、この映画が人形目線の物語になってしまうのはおかしい。実在するマンディと名付けられたその人形は、呪われていようが何であろうが、ただの人形だ。ただの人形が言葉を発するはずもないので、人形の目線から物語を紡げるはずがない。

 しかし、この映画は誰がどう観たって人形目線の映画なのである。もっと言ってしまえば、本来は観る者の感情移入する先であるべき主人公となる盗人側には同情の余地が一切ない。さらには恐怖の対象であるはずだった人形側を応援したくなってしまうようなドラマの描き方がなされている。

 これはただ単にこの映画全体の物語の紡ぎ方や見せ方が下手糞だから…ということに尽きるのだが、その結果、意図せずに人形目線の人形ホラー版『ホーム・アローン』が誕生してしまった節がある。これはある意味で不幸中の幸いだろう。なんせこんな人形ホラー映画は今までに存在しなかったのだから。

 たしかに主人公は盗人側だが、同じく盗人が主人公として描かれる映画『ドント・ブリーズ』とは違い、主人公側に盗みを働かざるを得ない要因がまったくない。生活に苦労しているわけでもなく、ただ何となく生きているような連中だ。

 一方、呪いの人形マンディとその老婆はたったの二人暮らしで、誰に迷惑をかけることもなくひっそりと暮らしている。老婆は人形に宿っている霊がいじめられっ子の女の子であることも理解しており、彼女の寂しさや悲しさに寄り添うようにして、我が子のように扱っている。

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 マンディはそんなおばあちゃんが大好きだ。だからこそ、おばあちゃんの大事な家を荒らしに来た主人公達を懲らしめてやろうと孤立奮闘する。この映画はそういったマンディの視点で描かれる。

 最終的にはマンディだけでなく老婆も参戦して主人公等に襲い掛かってくるのだが、やはりどう見たって、ただただ大事な愛娘のマンディを守ろうと老体に鞭を打って戦う健気なおばあちゃんにしか見えない。

 もしもこの映画が腕のある監督の手によって本来あるべき描かれ方をしていたならば、きっとこのような映画にはなっていなかったはずだ。

 それこそ本当に『ザ・ボーイ~』と『ドント・ブリーズ』を足して二で割ったような、逆に面白みのない映画に仕上がっていたのかもしれない。そう考えるとこの映画はこれで良いのだとも思える。

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 この映画には人形を使ったホラー映画として良かった点もあることを忘れてはならない。マンディのアクションにCGを一切使っていないところは非常に高く評価したいポイントだ。

 とはいえ、基本的にマンディのアクションとは、ナイフを持ってちょこまかと走り回るくらいのものではあるのだが…。やはり人形ホラー映画はしっかりと人形を使ってこそ!なので。

 

 映画の出来そのものは非常に陳腐であり、隠しようのない素人臭さが全面に出てしまっているので、観るに堪えない部分は多々ある。オススメはしないが、ちょっとした変わり種の人形ホラー映画ということで紹介しておく。

~父親の死と向き合って~『デビル・ドール』

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 『インデペンデンス・デイ』『ホワイトハウス・ダウン』などで知られるローランド・エメリッヒ監督の初期長編第4作。この映画は、まだ10にもならない少年ジョーイが大好きな父親を失うところからはじまり、彼がそのことにどう向き合っていくのかを描いた少年期の人形ホラー映画である。

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 ポール・ギルリースのスコアにのせて、ジョーイの父親の葬式が描かれるというなんとも切ないオープニングは、私の中の「好きな映画のオープニング」のベストに入る。

 

 ジョーイは9歳の少年だ。まだまだ親が恋しい年頃に大好きな父親を亡くす。多くの人がいずれは経験するであろう"親の死"という人生における大きな壁の一つが、早くも9歳の少年の前に立ち塞がる。

 当然のことながら、父親の葬式が終わってからもジョーイの悲しみはつづいていた。毎晩のように自室でジョーイは、亡き父親と自分が写った写真を眺めながらつぶやく。「父さん、さびしいよ。会いたいよ。」と。

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 ある夜、まるでジョーイの想いが父親に届いたかのように、彼の部屋のおもちゃ達がひとりでに動き出した。その中の一つである赤いおもちゃの電話から、鳴るはずのないベルが鳴る。

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 ジョーイはおそるおそる受話器を手に取った。そこから聞こえてきたのは、大好きな父親の声。その日から彼は、赤いおもちゃの電話のベルが鳴るのを待ち、死んだはずの父親と電話をするようになる。

 しばらくしてジョーイは学校へ復帰する。しかし、死んだ父親と電話ができるなんてことをクラスメイトに話してしまったもんだから、いじめの的になってしまう。その結果、ジョーイは不登校児となってしまうが、彼にはそのほうが幸せだった。

 学校へ行けばクラスメイトから父親の存在を否定され、ジョーイのことをかばってくれる先生は、かばっているようでいて彼の父親が死んだことを前提にした物言いしかできない。今のジョーイにとっての学校という場は自分にとっての不都合でしかなかった。

 この現状というのは、今のジョーイ本人にとっては良いのかもしれないが、将来的な目でみれば非常に大きな危険を孕んでいる。というのも、嫌な現実を突きつけられる場(=学校)から逃避し、自分だけが信じる世界に逃げ込むということは、いつまで経っても彼の将来的な成長に繋がらないからだ。

 愛する者との別れや大きな悲しみは、今を生きる誰もが経験することである。それを乗り越えて人は成長する。自分を信じること、自分の世界を信じることは間違っているとは思わない。しかし、自分自身が納得しているだけの世界に籠ることとは違う。

 そんな彼の成長の懸け橋になってくれるのが、この映画を人形ホラーたらしめている“あるモノ”の存在である。そのあるモノとは、完全な不登校児と化したジョーイが廃屋で見つけた腹話術人形だ。この腹話術人形には悪魔が宿っていた。

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 悪魔の腹話術人形は、甦るやいなや、容赦なくジョーイの気持ちを踏みにじりにかかる。ジョーイの父親のふりをして嘘の電話を掛け、「今までお前が電話してたのは父親なんかじゃない!」と言い放つ。
 これはジョーイにとって、大好きな父親の存在を否定されるも同然のことだ。つまり、現実から目を背けようと逃げ出した学校と同じ状況なのである。しかし、学校とは違って相手は悪魔の人形だ。こいつのせいで大好きな父親とも電話ができなくなっている。そうなれば立ち向かうしかない。父親との繋がりを断たせないために。

 この悪魔の腹話術人形はジョーイの辛い現実を体現した存在だと言える。ジョーイがこの人形に立ち向かうということは、これまで彼が逃げ続けてきた辛い現実に向き合うということだ。

 実際にジョーイが人形と対峙する手前の場面で彼はは「立ち向かわなきゃ…」と呟き、人形との最終決戦に挑んでいく。その結果、ジョーイは見事に悪魔の人形を撃退する。その見返りというわけではないが、一時的に彼は、命を落とすことになる。

 悪魔の人形を倒すには、天国にいる父親の力が必要だった。それが何故なのかはいまいちよく分からないのだが、ジョーイはそこで初めて、死後の父親と対面する。

 "悪魔の人形に立ち向かうということは、辛い現実に向き合うということであり、悪魔の人形を打ち負かすためには、父親の死に向き合わねばならない"ということを、この映画は率直に描いているのだ。

  何かと不器用な映画ではあるが、"人形と子供"という親和性の高さを活かし、それを人形ホラーというジャンルに落とし込みつつ、少年期の成長物語として描いたこの映画を無視はできない。

 しかしながら日本ではソフト化に恵まれておらず、いまだにVHSのみでしか観ることができないのが非常に残念だ。どこかで観る機会を得られるのならぜひとも観てほしい。アラはあるが、テーマとしては非常に真っ当なジュブナイル人形ホラー映画である。

 

 

 …悪魔の人形を倒したジョーイは一時的に命を落としている。この「一時的」という部分が大切だ。つまり、彼は死後の世界から現世へと帰ってくる。

 天国にいる父親と向き合った時、ジョーイはそこに留まることもできたはずである。大好きな父親と死後の世界で幸せに暮らせたかもしれない。

 

それでもジョーイは帰ってきたのだ。

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『無垢の祈り』で描かれる"日常"と"人形"

映画『無垢の祈り』は『妖怪奇談』の亀井亨監督が、平山夢明による同名短篇小説を映画化したものだ。この映画は映倫に通していなければ配給会社もついていない。製作費のすべてを亀井監督自身が出資し、原作者の平山夢明に映画化したい旨を伝え実現した完全な自主製作映画である。

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私は、この映画を映倫に通してないことと、配給会社がついていないことには大きな意味があると思っている。

そこには"児童性愛者による児童虐待"という、常人であれば想像もしたくないような題材を扱った『無垢の祈り』の物語が持つ残酷性を可能なかぎり最大限に、映画の中の"映像"として表現する必要があったからではないだろうか。

それほどまでにこの映画で描かれる虐待の描写や、直接的ではないにせよ描かれる性的暴力描写には容赦がない。不愉快極まりない。

この映画はフミという10才の少女がみる世界をありのままに描いている。ただ、その世界というのは、学校ではイジメを受け、家に帰れば義父よる虐待が待ちうけ、母親は神という偶像に縋っているだけの悲惨な世界だ。

フミはその世界から逃れることができない。当然だ。わずか10才の少女には義父のいる家以外に帰る場所がない。一人で生きていく術があるはずもなく、そこに帰ることしかできない。こんな"日常"をおくる彼女に、果たして希望はあるのだろうか?

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その"希望"というものは存在する。それはフミが観る小さなテレビのニュース映像から伝わってくる、"人間の骨を生きたまま根こそぎ取り去っていく殺人鬼"の存在である。

10才の女の子が抱く希望となるものが殺人鬼とはどうだろうか?どうしようもなく哀しい話ではないか?…そう。哀しいのだ。憂鬱だ。病んでいる。絶望的だ。

この映画を観ていると、こうした感情が絶え間なく押し寄せる。間違ってはいない。しかし、これらの感情はあくまで絶望の世界の外側にいる人間の感情にすぎない。

この世界で生きるフミにとってはそんな感情すらマヒしてしまっている。殺人鬼すら希望に思えてしまう。これが彼女にとっての"普通"と化しているのだ。

この彼女にとっての"普通"や"日常"という概念は、これからこの映画を観ようと思っている方には特に大切にしてほしい。

決してフミの生きる世界が"普通"であり、"日常"であってはいけない。しかし、現に今、私がこうして『無垢の祈り』の記事を執筆しているあいだにも、映画の中だけでなく現実の世界では虐待が"日常"となってしまっている子供達がいるのだ。

 

児童虐待は現実にある。私達がそれを知る術はテレビのニュースや新聞からだ。しかし、そこで知る虐待とは、既に被害者である子供が亡くなってからのものばかりだ。現に今こうしているあいだにも虐待を受けている子供達がいる。私達は彼らの死を知っていても、そこに至るまでの日常を知らない。」

 

私はこの映画を亀井亨監督と原作者の平山夢明氏によるトークショー付きの上映で観賞している。これは(完全ではないが)その時の平山夢明氏がトークショーで語ったことだ。まさに『無垢の祈り』という作品を通して伝えたいことがこの言葉に集約されていた。

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残酷で悲惨を極めた世界に生きる10才の少女フミは、どこかにいるはずの殺人鬼に想いを馳せ、自転車を走らせる。「会いたい。みんな殺して。会いたい。」と…。

この映画は2016年に公開された作品だが、あれから約2年の月日が経ってもDVDなどのソフト化はされていない。今後もソフトにはせず、定期的に劇場でかけていくのかもしれない。

単に自主製作映画ゆえに、そう簡単にソフト化できなかったりするのかもしれないが、このままソフトにせず、何年も何年もどこかの劇場でかける方がこの映画には相応しいとも思える。

我々が生きるこの現実の世界のどこかで虐待に苦しむ子供達がいるかぎり、この映画は劇場でかけていくべきなのだ。いずれこの映画を劇場でかけなくなる日がくるとすれば、それはこの世から虐待というものが無くなったときだろう。

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さて、最後になるが、ここで人形ホラー映画を愛する私として外しておけない"フミ人形"の存在について書き、本稿を締め括ろうと思う。

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フミ人形とは、映画『無垢の祈り』に登場する木製の操り人形だ。この人形は物語の主人公であるフミが自身を客観視した空想の存在として登場する。

また、映画的なギミックとしての役割も担っており、実際の子役に演じさせるわけにはいかない、直接的で倫理的に不可能な少女への性的暴力シーンをフミ人形が代わりに演じている。

フミ人形は、ただ単にフミ自身を客観視した存在としてそこに"いる"わけではない。フミ自身にこれから降りかかるであろう恐怖や、フミが実際に体験した恐怖をまるで思い起こさせるかのように現れるトラウマの存在なのだ。

不気味であるが美しく、どこか肉体感も生々しいデザインをしたフミ人形は、その役割もさることながら、映画を観る側の人間にもトラウマを植え付けてしまうほどの存在感がある。

フミ人形は登場回数こそ少ないが、その身をもって表現すべきトラウマ描写を見事に演じてくれた影の主役と言えるだろう。

そういった意味では、人形ホラー映画の観点から『無垢の祈り』を観てみるのも面白いかもしれない。

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『エルフ 悪魔の人形』の何がダメなのか?

『エルフ 悪魔の人形』は人形ホラー映画であるが、映像的な部分ではそのジャンルが持つ特有の魅力を潰してしまっている!というお話をします。

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これはどういうことかというと、『エルフ~』は人形が動いて暴れるホラー映画なのに、実際の人形を用いた特撮はほぼ無いに等しく、CGで表現されたアニメーションの人形が暴れまわるばかりだからだ!ということ。

え?それの何がいけないの?と思われるかもしれないが、そうした疑問に対する解答を、人形ホラー映画を愛する私なりの視点からしていこうと思う。

『エルフ~』は「チャイルド・プレイ」シリーズと同様、人形そのものが物理的に人間を襲いにくるタイプの殺人人形ホラー映画だと言える。このジャンルの最大の魅力とは、CGではない実物の人形を使っての殺人シーンを表現できることにある。

例えばホラー映画という大きな括りの中で、『13日の金曜日』のジェイソンや『エルム街の悪夢』のフレディ等、人間サイズの殺人鬼であればメイクを施した役者が演じることができ、「たしかに殺人鬼がそこにいる」という実在感を表現できるのは当然だ。

一方、人型の殺人鬼とは違ったクリーチャータイプはどうだろうか。

80年代~90年代半ばまではアニマトロニクスや着ぐるみ等で演出できていたクリーチャー達だが、CG技術の発達した現代においては、彼らの表現の大半はCGによるものとなってしまう。

それは決して悪いことではないが、CGで表現されたクリーチャーは、やはりアニマトロニクスや着ぐるみが持つ“実在感”という魅力には負けてしまう。

では、殺人人形が登場するホラー映画はどうだろうか?人間サイズの殺人鬼でもなく、クリーチャーでもない“人形”だ。

例えば「チャイルド・プレイ」シリーズの最新作『チャイルド・プレイ~チャッキーの狂気病棟~』(2017)や「パペット・マスター」シリーズの最新作“Puppet Masater: Axis Termination”(2018)を観てみても、人形が動く、話す、殺すといった表現のほとんどは撮影のために製作された実際の人形やアニマトロニクス、もしくは小人俳優を使っての表現が当たり前のように成されている。

この“当たり前”という部分は非常に大事なことであり、殺人人形ホラー映画には元より機械式・ゼンマイ式でないかぎり「本来動くはずのない人形が動き、さらには襲ってくる!」というところに怖さと面白さがある。

それを映像作品という媒体で表現するならば、CGによるアニメーションではなく、実際の人形を使って、あたかもひとりでに動いているように見せなければ意味がないということを、少なくとも「チャイルド・プレイ」シリーズと「パペット・マスター」シリーズの製作側は理解しているからこその“当たり前”なのだと私は考えているのだ。

そもそも“人形”とはエイリアンや未知の生命体とは違い、我々の生活の中に実在する身近な存在だ。誰もが一度は触れたことがあるであろう魂を持たない“物”である。

エイリアンや未知の生命体とは違って、誰もがその存在を知っていて、触れたことがあって、なんなら“お気に入りの一体”を持っていた(もしくは持っている)かもしれないからこそ、人形ホラー映画という媒体の中でその存在の実在性を最大限に表現するにはCGによるアニメーションでは意味がないのだ。

このことを踏まえたうえで『エルフ 悪魔の人形』を観てみると、この映画に登場する殺人エルフ人形が動くシーンのほとんどはCGで表現されており、なんなら人形ではなく妖精か小人なんじゃないかと思わせるほどに滑らかな動きと愛嬌のあるニヤついた表情を浮かべる。

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これははたして人形ホラー映画と呼べるのか?ただの妖精が襲ってくるホラー映画でよかったのではないか?

近年、人形ホラー映画の中にはこうした“人形ホラー映画の皮を被っただけの映画”というものがよく目につくようになった。

私には理解しがたいほどの人気を博している「アナベル」シリーズなんかもそうだ。

実在する呪われたアナベル人形を題材にしておきながら、人形とは全く関係のないところで物語が進み、人形は単なる恐怖演出のギミックとしてしか機能していない。

それなのに世間ではチャッキーに次ぐ人形ホラーアイコンとして「アナベル」シリーズが持ち上げられている…。

と、「アナベル」シリーズへの悪口はここらで控えておくが、こうした人形を恐怖演出のギミックとしてしか扱っていない人形ホラー映画(の皮を被っただけの映画)は、「人形だから怖いんでしょ?不気味でしょ?」と製作側も半笑い根性なのは確かだろう。

人形ホラー映画というジャンルと真に向き合っていくならば「人形=怖い、不気味」といった固定観念も捨てていくべきである。

恐らくは『エルフ 悪魔の人形』も製作側が人形ホラー映画の本質と、その金字塔である『チャイルド・プレイ』の本質を分かっておらず、ただ単に絵面として「チャッキーみたいなことをすればいい」という根性でやっているからこのような出来の悪い人形ホラー映画になってしまったのだろう。

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そもそも、言ってしまえば『エルフ~』は人形ホラー映画云々以前の問題で、ホラー映画としての質も良いとは言い難い。

物語を動かすために登場人物が不自然に行動を起こしてしまうという脚本のダメさや、物語の紡ぎ方そのものも下手糞だ。

エルフ人形の持ち主によってリストアップされたターゲットがエルフ人形に襲われるというアイデア自体は悪くないと思うだけに、あまりにも残念な映画である。

 

最後になるが、決して『エルフ 悪魔の人形』の何もかもがダメだとは言わない。エルフ人形のデザインは可愛いし、Trailerでも使用されている宇宙恐竜ゼットンのような鳴き声のBGMもかっこいい。

雰囲気そのものもそんなに悪くはない映画なので、おすすめはしないが興味のある方はどうぞ…とだけ言っておこう。

そして、この映画を観て「人形ホラー映画とはなんたるか?」ということを考える機会になれば嬉しいと私は思う。