魔界少女キャシーと殺人人形

Do you know "Creepy Doll Movies"?

~優しい狂気の人形怪談~『生き人形マリア』

この映画が日本の劇場で、スクリーンに映し出され、良い音響で観られる環境にあったということが最高の恐怖であり、何よりの奇跡なのではないだろうか。2014年にフィリピンで生まれたこの狂気の人形ホラー映画は、約5年という時を経て日本に上陸してしまったのだ…。

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ストーリー

同じ学校に通う娘を持つフェイス、フリオ、ステラの3人は、ある日突然、娘を失う。バスの事故だった。あまりにも突然な娘の死から立ち直れるはずもない3人の前に、精神科医を名乗るマノロという男が現れる。

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彼は人形を持っていた。それも、3人が失った愛娘と瓜二つの「生き人形」だ。彼はこの人形で悲しみを癒せるという。だが、フェイスとステラはそんな節操のないマノロの提案を受け入れるはずもなく、怒りを露わにし、人形を突き返す。

一方、娘こそが唯一の家族であったフリオだけはマノロの提案を受け入れた。マノロの言うとおり、人形との生活を始めたフリオは徐々に悲しみを癒していく。その姿を見たフェイスとステラも、徐々にマノロの人形を受け入れていくことになる。

こうして3体の少女人形はそれぞれの家に置かれることになった。最初こそマノロの提案を拒否していたフェイスとステラも、フリオと同じように人形との生活のなかで徐々に悲しみを癒していった。

だが、3人の悲しみが癒えていくと同時に、周囲からは人形に対する信じがたい恐怖の声が上がるようになる。そして、3人が人形の恐ろしい裏の顔に気づきはじめたとき、動くはずのない人形が独り歩きをはじめる。

 

現代に甦る「着ぐるみ方式」の殺人人形を見よ!

『生き人形マリア』は紛うことなき「殺人人形ホラー映画」だ。ひとりでに動くはずのない3体の少女人形が、呪いでも何でもなく、得体の知れない未知のパワーによって動けるようになるという、いわゆる『チャイルド・プレイ』のチャッキーと同じカテゴリに分類される。

ただ、技術的な話をすると、人形が人を襲う場面においてはチャッキーのようにアニマトロニクスを使った特撮というのはほとんど用いられていない。いわゆる着ぐるみ方式というか、子役に人形のメイクを施し、演じさせているのだ。

殺人人形ホラー(『チャイルド・プレイ』以外では「パペット・マスター」シリーズや『ドールハウス』等)といえばチャッキーのようなアニマトロニクスによる特撮が一般的なように思えるが、実は『生き人形マリア』のような「着ぐるみ方式」(本稿ではこの表現で統一する)の方が歴史は古い。

例えば1964年に製作された“DEVIL DOLL”(日本未公開)という映画なんかは着ぐるみ方式を使って殺人人形を再現した世界で初めての映画ではないだろうか。

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また、1968年製作“Curse of the Doll people”(日本未公開)や、日本でもブルーレイソフト化までされている1987年製作『クリープショー2 怨霊』の木彫りインディアン人形なんかもそうだと言える。

そして『生き人形マリア』は、実は“DEVIL DOLL”とまったく同じ手法で殺人人形を表現している。役者の顔には人形を模したフルフェイスのマスクを被せ、人形と同じ衣装を着ることで表現するというものだ。

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この映画の製作陣がわざわざそういった部分でのクラシックさを狙ってやったとは思えないが、現代の人形ホラー映画においては見ることのない手法なので、それだけでも観る価値は充分にあるだろう。

もちろん、そういったクラシカル的なアピールポイントだけではない。単純に少女人形を模したフルフェイスというのが不気味で恐ろしいということもある。正直に言って、決して出来の良いマスクというわけではない。

だが、その不出来さが「歪むはずのない人形の表情が歪んだ瞬間」みたいなものを見事に表現しているようで恐ろしいのだ。この顔をした人形に追いかけられたら、一生のトラウマものだろう…。

 

恐怖に立ち向かい、悲しみを乗り越える物語

『生き人形マリア』という映画は、底知れぬ人形の恐怖演出や終盤の悪魔的なストーリー展開など、全体的にハイテンションで狂った映画であることには間違いない。だが、実はストーリーに込められたテーマそのものは至極真っ当で、涙なしには語れないものであるということはしっかりと話しておきたい。

そこにはこの映画に登場する3体の人形が、それぞれ3人の愛娘と瓜二つの容姿をしているというところにも大きく関係してくる。

この映画の主人公である3人の母親は愛娘を失った悲しみから立ち直れずにいるが、いつまでもそうではいられまいと、どこからともなく現れた精神科医の勧めで、いわゆるドールセラピーを選択する。

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だが、そこで用いられる人形は死んだ娘と瓜二つの容姿をした人形だ。たしかに死んだ娘の代用として瞬間の悲しみは癒えるのかもしれないが…では、もしもその人形が壊れたり、無くなってしまったらどうなる?結局また娘を亡くした悲しみに逆戻りだ。

ストーリーの展開からみても、3人の母親が人形を受け入れたことで彼女らの悲しみは癒えていく反面、周囲では暗黒が蔓延しはじめるということが、人形は根本的な悲しみの解決には至ってないことを表しているようにも思える。

愛娘と瓜二つの容姿をした人形で代用したところで、本当の娘が亡くなった事実は変わらない。本当の意味で悲しみから立ち直るには、心に空いた穴を人形で埋めるのではなく、「娘はもういない」という事実・現実を受け入れることだ。

そう考えたときに、この映画の主人公である3人の母親が、亡くした娘と同じ姿をした人形を自らの力で打ち負かすというラストは大きな意味を持ってくる。

フェイス、フリオ、ステラが愛した娘達…マリア、レオノラ、テレサの姿をした殺人人形は、彼らが乗り越えるべき「悲しい現実」の象徴だったのだ。

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最後に

あくまで本稿の執筆中及び記事を公開する時はまだ劇場公開中のはずなので、敢えて記事の中で触れてはいない要素が多々あります。ただ、私がこの人形ホラー映画を観て魅力に感じ伝えたかったことは書かせていただいたので、これを読んで劇場に足を運んでくださる方が増えるといいなぁとは思っています。

この映画は間違いなく人形ホラー映画だし、傑作です。ストーリーにおいて人形が必要不可欠なだけではなく、作品に込められたテーマとして人形が重要な役割を担っています。

それでいて怖いです。すごく怖いです。

すごく怖いんです。