2019年版『チャイルド・プレイ』評
まず最初にハッキリと言っておく。
これは人形ホラー映画でもないし、その金字塔である『チャイルド・プレイ』の名を語るべきではない。
この映画にかぎらず、どんなリブート作品でもオリジナルをなぞれとは言わない。リブートするだけの挑戦はしてほしいし、どうせなら新しいものを見せてくれとも思う。だが、それはあくまでオリジナル版の良さを損なわない、敬意を払ったうえでの話だ。
このリブート版『チャイルド・プレイ』にはオリジナルに対するリスペクトも感じられなければ、それどころかジャンルまでをも別のものに変えてしまっていると私は感じた。
オリジナル版との相違点①~これは人形なのか?問題~
88年製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』の殺人人形チャッキーはブードゥーの魔術によって殺人鬼チャールズ・リー・レイの魂が人形に宿ることで誕生する。
チャールズの魂が宿ったグッドガイ人形チャッキーは、アンディ・バークレイという一人の少年のもとへ、誕生日プレゼントとして贈られる。
通常のグッドガイ人形にはトーキング機能に加え、首を動かし瞬きをするという機能が備わってはいるが、それ以外の動作は行えないのが特徴だ。
しかし、アンディのもとへやってきたチャッキーはそうではなかった。見た目こそ愛嬌のある可愛らしい少年の風貌をした人形だが、中身は殺人鬼なのだ。
オリジナル版の怖さはそこにある。ひとりでに動くはずのない人形が動き出し、知らぬうちに人を殺しているということが恐ろしかった。
一見すれば「人形に人殺しをさせてみよう」という、ある意味でサメやワニ、エイリアンといったモンスターホラーと似たアイデアのもとにあるようにも思えるが、この映画が他と違ったのは、なによりも身近な存在による恐怖というところだ。
オリジナル版の公開当時には「『チャイルド・プレイ』を観てしまった子供たちがついさっきまで遊んでいた人形を捨てはじめた。」なんて逸話が残るほどに、この映画は人形の恐怖というものを観る者に植え付けた。それが結果として「人形ホラー映画」というジャンルの認知・確立に繋がった。
だが今回のリブート版はどうだ。グッドガイ人形ならぬバディ人形には最新鋭のAIが搭載され、初期のスペックからすでに自立して動くことができ、話すこともできる。なんなら家電まで操作するし、持ち主との対話を経て成長までするという仕様だ。
完全に機械とコンピュータの成せる業として誕生したバディ人形は、もはや「人形」とは呼べず、完全なロボットになってしまっている。
バディ人形ならぬバディ・ロボはiphoneに接続することで初期設定を行い、眼を光らせ、起動する。もう、これは人形のホラー映画ではない…。
オリジナル版との相違点②~もう、何もかもが違う~
極めつけはこの映画の冒頭シーンだ。バディ・ロボの生産工場からはじまるオープニングにはそれなりにワクワクさせられた。だが、そのワクワクも一気に地獄へと突き落とされる。
ある一人の工場員が上司にクビを告げられる。その腹いせにと製作途中のある一体のバディ・ロボのプログラムを「暴力の制限無し」へと書き換えて作り上げてしまうのだ。これにより、殺人人ぎょ…殺人ロボ・チャッキーが誕生する。
ちなみにこの殺人ロボが「チャッキー」と名乗る理由などは一切無い。オリジナル版よりも年齢を格上げされたアンディ少年に何と呼ばれたいかを尋ねられ、特に前触れもなく「チャッキーと呼んでほしい」と答える。
こんなのはオリジナルへの配慮もしくはリスペクトでもなんでもない。いっそのことなら名前を変えるべきだった。
話を元に戻すが、結局ワクワクから一気に地獄へと突き落とされた冒頭シーンの何がいけないのかというと、まだ物語も始まっていない段階からすでにバディ・ロボが暴走してしまうことへの明確な理由付け(=プログラムの不具合)がなされてしまっていることだ。
これがどういうことに繋がるのかというと、まず、88製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』が社会現象を巻き起こすほどに与えた恐怖とは「動くはずのない人形が〜」という部分にあると先述したが、リブート版ではデフォルトで動いて話せる仕様の人形ならぬロボットに改変されている…ということがある。
それに加えて、ブードゥーの魔術という何が解決策かも分からないところがまた観る者の恐怖心を煽っていたオリジナル版とは違い、最初から機械仕掛けのロボットであることが明確で、そのロボットが暴走してしまう原因が内蔵されたAIのプログラムにあると分かってしまっている以上、いくらでも解決策が見出せてしまうので、必然的に恐怖が半減してしまうのだ。
ちなみにその解決策というのは、チャッキーに内蔵されたAIを抜き取って破壊するか、チャッキーそのものを破壊すればいい!ということだ。案の定、物語の主人公達はそれと同じことをする。しかもそれで本当に解決させてしまうのだから、開いた口も塞がらない。
2019年に、オリジナルの殺人人形チャッキーを創造したドン・マンシーニの断りもなく製作されたリブート版『チャイルド・プレイ』は、その製作の姿勢からも伺えるように、オリジナル版への敬意を一切無視した作品になってしまったのだ。
リブート版『チャイルド・プレイ』の良さ
そんなものはありません。
キャラクターとしてのチャッキーに関する相違
強いて言うならば、殺人ロボ・チャッキーによる残酷描写は思った以上に容赦がなくて素晴らしかったのではないかと思う。
オリジナル版チャッキーも、まさにタイトル(“Child's Play”)のごとく、まるで子供の遊びかのようなピタゴラ殺人術やその無邪気さで楽しませてくれた。リブート版チャッキーに関してもそれは同じで、無邪気で残酷な殺人術をこれでもかと披露してくれる。
ただ、どうしても許せない点がいくつかあった。それもまたオリジナル版との比較になってしまうのだが、そこは許してほしい。
その一つはオリジナル版チャッキーと違って、リブート版チャッキーの殺人の動機が不純であったことだ。
オリジナル版チャッキーは純粋に殺人を楽しんでいて、そこに大きな理由はなかった。だから観ていて清々しいものがあったし、和ましくもあった。
一方でリブート版チャッキーはアンディのことが大好きすぎて人を殺してしまうという、どこか殺人の動機に闇を感じられ、同情心をくすぐるようなものになっている。
この「チャッキーの殺人の動機のあるなし」はキャラクターとしてのチャッキーの魅力において重要なポイントだ。
オリジナル版チャッキーが今日まで多くのファンに愛されてきたのにはキャラクターとしての大きな魅力があったからに他ならない。それというのが、無邪気に人を殺すという「可愛らしさ」と、チャッキーに同情の余地が一切ないというところだ。
人間だったころのチャールズ・リー・レイが何をしても生き延びたいがために魂を人形に移したことで誕生したチャッキーは、新たな人間の肉体を求め、アンディ・バークレイという一人の少年を執拗に追い回す。その先々で自分の一番の道楽である人殺しをして楽しんでいる。
人間だったころは殺人鬼だったくせに、今度は人形に乗り移って一人の少年の人生を破滅に追い込もうとしている。ついでに人も殺す。
そんな奴に誰が同情するというのか。…と思う反面、人殺しをしているときの無邪気さと見た目の愛らしさから許せてしまう。それがオリジナル版チャッキーの持つ大きな魅力の一つではないだろうか。(※もちろん、それだけではない個人が感じるチャッキーの魅力はいっぱいあるはずです。)
また、同情の余地が一切ないからこそ、シリーズを重ねるたびにチャッキー自身が殺されても「まぁ、仕方ないよね…笑」としか思わなくてすみ、観ている側も後腐れがない。常に気持ちの良いままで映画の幕を降ろすことができるのは、オリジナル版チャッキーのキャラクター性にあるのではないだろうか。
だが、リブート版チャッキーのように歪んだ愛情のようなもので人を殺すなどというキャラクターにしてしまったものならば、本来主人公であるアンディが助かっても素直に喜べず、チャッキーに対してどこか同情してしまうという気持ち悪さだけが残ってしまうのだ。
このチャッキーのキャラクター性の改変に関しては、リブートするうえでやろうとしてることも分かるし、なんなら良い試みではないかと思っている。
ただ、私個人の意見としては、やはり許せない改変なのだ。リブートするにしたって、こんな闇の深いチャッキーを私は求めていないかった。
リブート版はジュブナイル映画として成功していたのか?
さて、このリブート版『チャイルド・プレイ』であるが、オリジナル版と比べたストーリー面での大きな改変として、ジュブナイル映画としての側面を大きく売りに出しているところがある。
たしかにオリジナル版よりもアンディの年齢は上がり、自身の抱くコンプレックスや家族関係、友人関係で悩むアンディの姿が描かれる。
だが、はっきり言ってそのどれもがすべて中途半端であったことは否めない。特にアンディの友人関係のドラマに関してはクライマックスのカタルシスを生むために最も丁寧な描き方をしなければならないはずなのだが、そこが特にないがしろになっていた。
そもそも劇中でアンディが友人を作るために必要な場となりえる学校に通う描写は一切無く、明らかに物語を動かすための歯車然として突然現れた、同年代の二人組と理由もなく意気投合してしまう。
これがもう不自然極まりないのに、そこからおおよそ予想しうる展開としての「仲間割れ→再結成→みんなでチャッキーをやっつけるぞ!」という流れも非常にステレオタイプで薄っぺらい。
ホラー映画の宿命とも言えるが、そもそもの本編時間がそんなに長いものではないので、その中で描き切れなかった部分もあったのだろう。それが幸いしてか、映画自体のテンポは悪くなく、退屈するようなことがなかったのは唯一の救いだ。
こうしたドラマ部分の新しい試みは非常に賛同できるが、人形ホラー映画好きであり、ジュブナイル映画も大好きな身からすると、もう少し何とかならなかったものか…と肩を落とさずにはいられない。
リブート版『チャイルド・プレイ』で唯一期待していた要素だっただけに、非常に残念だ。
総評・まとめ
残念ながら、私の予想していた悪夢のリブート版『チャイルド・プレイ』がそこにはあった。コトの真意は定かじゃないが、そもそもこれまで「チャイルド・プレイ」シリーズを支えてきた、チャッキーの生みの親であるドン・マンシーニにリブートの話を通してない時点でオリジナルへの敬意は感じられない製作スタンスであったし、それがモノの見事に作品の出来に反映されていたのではないだろうか。
オリジナル版『チャイルド・プレイ』への愛は一切感じられない、文字通り「チャッキーの皮を被っただけのホラー映画」だった。
…とはいえ、ジャンルとして低迷しきっている人形ホラー映画という存在を改めて多くの人に知ってほしいという思いもあり、この映画がその懸け橋となってくれることに期待して「『チャイルド・プレイ』として観なければそれなりに面白いよ」と言いたくもなってしまったが、私がこの映画を人形ホラー映画として観れていない時点で多くに薦めたとしても、人形ホラー映画としての魅力は誰にも伝わらないであろう。
そしてやはり認めたくはないが、このリブート版が『チャイルド・プレイ』という名を掲げてしまっている以上、「チャイルド・プレイ」シリーズの一つとして評価しなければならない。
そうした時、私はこの映画を誰にも薦めてはならないと心に誓った。