魔界少女キャシーと殺人人形

Do you know "Creepy Doll Movies"?

リブート版『チャイルド・プレイ』の公開を迎えて

本日はリブート版『チャイルド・プレイ』の公開日だ。正直に言って期待はしていない。

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再三言ってきたことだが、新チャッキーのスペックがAI搭載の高性能人形という時点でそれは「人形」ではない(つまり「人形ホラー映画」と呼んでいいものか?という問題)し、また「AIの暴走で人を襲う」なんて説明をされてしまったものならば…。

この大きな改変に関しては内心、すごく怒っている。

人形がひとりでに動いて殺人鬼と化す理由に科学的な根拠を付けるべきではないからだ。なぜならそれはサラ・コナーにショットガンをぶっ放させて、溶鉱炉に沈めればいいって話になってしまうから。

人形ホラーはそういうものじゃないし、もっと言えば88年製作のオリジナル版『チャイルド・プレイ』の持つ魅力、そして恐怖の根源に反しているからと言える。

映画に限らず、僕が「人形ホラー」というジャンルにおいて大切な要素だと思っていることは「人形=恐い」ではなく、その恐怖が人形でなくてはならない「理由」だ。

本来、人形は恐いものではない。特にフランス人形や市松人形なんかはそう思われがちだろう。気づけば「人形=恐い」という固定観念が世の中に広がっている。だが、思い出してほしい。人形は恐いものではない。人形は誰かを怖がらせるためのものではない。

たしかに人形の歴史の古くを辿れば呪術の道具や生贄の身代りというアンダーグラウンドな歴史を辿ってきた側面はあるが、時代は流れ、我々の遊び相手としての存在を確立し、今ではそれが一般的と言える。

そんな人の形を成した「人間の味方であり利用されるモノ」が人間に牙を剥くとはどういうことか?ひとりでに動くことのない人形が自我を持ち、我々を襲う恐怖とはどういったものか?それがまたなんで動くのか分からないから恐い。これこそが人形ホラージャンルの一番の魅力なのだ。

トム・ホランドが監督し、ドン・マンシーニが創造した88年のオリジナル版『チャイルド・プレイ』にはそれがあった。

アンディのお気に入りであり友達でもあったグッドガイ人形が、最初は表情も変えずに物騒な言葉をアンディに耳打ちし、それが次第にひとりでに駆け出すようになり、いつのまにかテレビの前でニュースを観ている。

それだけでも充分恐ろしかったのに、その人形がついに人間を殺しはじめる。なんで動いているのかも、人間を殺すのかもまったく分からない。スピーク機能はあっても、動く機能は持ち合わせていないただの人形がそういった行動を起こすから恐ろしかったのだ。

今日まで人形ホラー映画の金字塔と称され、本国での公開当時は映画を観た子供達が一斉に人形を捨てはじめた…なんて逸話が残るほどの影響を与えたオリジナル版が築き上げてきた人形ホラー映画の魅力というものがある。

リブート版チャッキーのスペックの改変に関してはもう手遅れだが、その他の、主人公アンディの年齢をオリジナル版よりも上にし、ジュヴナイル要素を加えたというストーリー面での改変は決して悪いものではないと思うだけに、リブート版『チャイルド・プレイ』にはそこを見失わない、汚さない映画であってほしいと切に願う。