魔界少女キャシーと殺人人形

Do you know "Creepy Doll Movies"?

『無垢の祈り』で描かれる"日常"と"人形"

映画『無垢の祈り』は『妖怪奇談』の亀井亨監督が、平山夢明による同名短篇小説を映画化したものだ。この映画は映倫に通していなければ配給会社もついていない。製作費のすべてを亀井監督自身が出資し、原作者の平山夢明に映画化したい旨を伝え実現した完全な自主製作映画である。

f:id:nekubo:20180909220323p:image

私は、この映画を映倫に通してないことと、配給会社がついていないことには大きな意味があると思っている。

そこには"児童性愛者による児童虐待"という、常人であれば想像もしたくないような題材を扱った『無垢の祈り』の物語が持つ残酷性を可能なかぎり最大限に、映画の中の"映像"として表現する必要があったからではないだろうか。

それほどまでにこの映画で描かれる虐待の描写や、直接的ではないにせよ描かれる性的暴力描写には容赦がない。不愉快極まりない。

この映画はフミという10才の少女がみる世界をありのままに描いている。ただ、その世界というのは、学校ではイジメを受け、家に帰れば義父よる虐待が待ちうけ、母親は神という偶像に縋っているだけの悲惨な世界だ。

フミはその世界から逃れることができない。当然だ。わずか10才の少女には義父のいる家以外に帰る場所がない。一人で生きていく術があるはずもなく、そこに帰ることしかできない。こんな"日常"をおくる彼女に、果たして希望はあるのだろうか?

f:id:nekubo:20180909220655p:image

その"希望"というものは存在する。それはフミが観る小さなテレビのニュース映像から伝わってくる、"人間の骨を生きたまま根こそぎ取り去っていく殺人鬼"の存在である。

10才の女の子が抱く希望となるものが殺人鬼とはどうだろうか?どうしようもなく哀しい話ではないか?…そう。哀しいのだ。憂鬱だ。病んでいる。絶望的だ。

この映画を観ていると、こうした感情が絶え間なく押し寄せる。間違ってはいない。しかし、これらの感情はあくまで絶望の世界の外側にいる人間の感情にすぎない。

この世界で生きるフミにとってはそんな感情すらマヒしてしまっている。殺人鬼すら希望に思えてしまう。これが彼女にとっての"普通"と化しているのだ。

この彼女にとっての"普通"や"日常"という概念は、これからこの映画を観ようと思っている方には特に大切にしてほしい。

決してフミの生きる世界が"普通"であり、"日常"であってはいけない。しかし、現に今、私がこうして『無垢の祈り』の記事を執筆しているあいだにも、映画の中だけでなく現実の世界では虐待が"日常"となってしまっている子供達がいるのだ。

 

児童虐待は現実にある。私達がそれを知る術はテレビのニュースや新聞からだ。しかし、そこで知る虐待とは、既に被害者である子供が亡くなってからのものばかりだ。現に今こうしているあいだにも虐待を受けている子供達がいる。私達は彼らの死を知っていても、そこに至るまでの日常を知らない。」

 

私はこの映画を亀井亨監督と原作者の平山夢明氏によるトークショー付きの上映で観賞している。これは(完全ではないが)その時の平山夢明氏がトークショーで語ったことだ。まさに『無垢の祈り』という作品を通して伝えたいことがこの言葉に集約されていた。

f:id:nekubo:20180911213209j:image

残酷で悲惨を極めた世界に生きる10才の少女フミは、どこかにいるはずの殺人鬼に想いを馳せ、自転車を走らせる。「会いたい。みんな殺して。会いたい。」と…。

この映画は2016年に公開された作品だが、あれから約2年の月日が経ってもDVDなどのソフト化はされていない。今後もソフトにはせず、定期的に劇場でかけていくのかもしれない。

単に自主製作映画ゆえに、そう簡単にソフト化できなかったりするのかもしれないが、このままソフトにせず、何年も何年もどこかの劇場でかける方がこの映画には相応しいとも思える。

我々が生きるこの現実の世界のどこかで虐待に苦しむ子供達がいるかぎり、この映画は劇場でかけていくべきなのだ。いずれこの映画を劇場でかけなくなる日がくるとすれば、それはこの世から虐待というものが無くなったときだろう。

f:id:nekubo:20180912013313p:image

さて、最後になるが、ここで人形ホラー映画を愛する私として外しておけない"フミ人形"の存在について書き、本稿を締め括ろうと思う。

f:id:nekubo:20180911215957p:image

フミ人形とは、映画『無垢の祈り』に登場する木製の操り人形だ。この人形は物語の主人公であるフミが自身を客観視した空想の存在として登場する。

また、映画的なギミックとしての役割も担っており、実際の子役に演じさせるわけにはいかない、直接的で倫理的に不可能な少女への性的暴力シーンをフミ人形が代わりに演じている。

フミ人形は、ただ単にフミ自身を客観視した存在としてそこに"いる"わけではない。フミ自身にこれから降りかかるであろう恐怖や、フミが実際に体験した恐怖をまるで思い起こさせるかのように現れるトラウマの存在なのだ。

不気味であるが美しく、どこか肉体感も生々しいデザインをしたフミ人形は、その役割もさることながら、映画を観る側の人間にもトラウマを植え付けてしまうほどの存在感がある。

フミ人形は登場回数こそ少ないが、その身をもって表現すべきトラウマ描写を見事に演じてくれた影の主役と言えるだろう。

そういった意味では、人形ホラー映画の観点から『無垢の祈り』を観てみるのも面白いかもしれない。

f:id:nekubo:20180912014104p:image